ジャッジ脳の中の小人
2013年4月1日 MTG コメント (3)僕がジャッジになってからそれなりに時間が経った。
個人の大会を主催し、競技イベントに参加し、グランプリも経験した。そんなジャッジとしての活動を続けるうちに、少しずつジャッジ脳が形成されてきた。ジャッジ脳とは僕が勝手に呼んでいるだけのものだが、それは脳の奥深くに形成され、よりよい大会運営とは何かを解釈し調整し明確化している。このジャッジ脳が形成されていくにつれ、その中には三人の小人が住み着くようになった。
今日はその小人たちを紹介したいと思う。
一人目は規則の執行者たるマーフォークだ。彼は公式の規則をよりよく把握し順守するために僕のジャッジ脳に留置している。
ここでMTGにおけるポリシーという言葉について補足し誤解を解いておこう。MTGの公式側が特に裁定に関連して使うポリシーという言葉は、僕ら日本人がイメージするそれとは少し違う意味を持つ。僕らは普段ポリシーという言葉を「方針」という意味で使うから、日本人がポリシーと聞くとマジックのイベントにおける方針くらいに感じてしまうが、これは違う。公式側の言うポリシーとはもっと具体的なもの、イベント規定と違反処置指針のポリシー文書のことだ。それに対してマジックの方針は「哲学/philosophy」という言葉で表わされる。
規則の執行者たるマーフォークは、公式側によって定められたポリシー文書を唯一絶対のものだと考えている。そのため彼は、ポリシー文書を厳密に厳格に順守することがよりよい大会運営に繋がると確信し、ポリシー文書の内容を全て正しく把握することに没頭している。
二人目は哲学の探求者たるエルフだ。彼はMTGの哲学をよりよく理解し実践するために僕のジャッジ脳に居住している。
ここでもうひとつ誤解を解いておこう。ポリシー文書にはマジックの哲学が最大限反映され、大会運営や問題解決の最善の手段が示されている、と考えているかもしれないが、それは誤りである。ポリシー文書には哲学が最大限反映されているわけではない。仮にそんなものがあったとして、世界中で一体何人のジャッジがそれを正しく運用できるだろうか。先日失効された失効能力の一番の問題点もそこにあった。失効能力の着想自体はかなり理想に近い形ではあったものの、それを扱うのが人間である以上、理想を現実に反映することが叶わなかった。ポリシー文書は世界中のジャッジが等しく運用できなければならなず、そこで制約がかかってしまっている。
哲学の探求者たるエルフは、ポリシー文書を唯一絶対のルールなどとは考えていない。それは観賞物として展示された案山子に過ぎず、真に重要なのはその土台である哲学だと考えている。そのため彼は、ポリシー文書に記しきれなかった哲学を実践することこそがよりよい大会運営に繋がると忠信し、ポリシー文書を読み砕きその土台である哲学を理解することに煩悩している。
三人目は信念の解放者たるゴブリンだ。彼は僕自身の信念をよりよく確立し貫徹するために僕のジャッジ脳で喊声を挙げている。
ヘッドジャッジには、ある程度の範囲でポリシー文書から逸脱した裁定を出すことが認められている。ただしそのある程度というのは、非常に稀な特定の例外事象の存在下か、適用すべき理念が定められていない場合のみであり、つまり裁定においてその機会は滅多に訪れない。各々のジャッジが自身の信念を持つことは良いが、だからといって、組織化プレイとしてはジャッジによってそれぞれ異なる裁定を出されては困る。そのためのポリシー文書である。
しかし信念の解放者たるゴブリンは、ポリシー文書はジャッジが従うものではなく、あくまでもジャッジが扱うツールのひとつであると考えている。そのため彼は、ポリシー文書を逸脱することを厭わず自分の信念を貫徹することがよりよい大会運営に繋がると妄信し、ポリシー文書を通して自分の信念を確立することに執心している。
僕のジャッジ脳の中では、この三人が各々の観点からよりよい大会運営を目指して議論している。もっとも、この三人の意見は多くの場合において合致している。ポリシー文書には公式側の哲学が実現可能な範囲で反映されているし、僕自身の信念も公式側の哲学やポリシー文書をそれほど逸脱していない。しかし時には意見が食い違い議論が白熱することもある。
最も大きな発言力を持つのは規則の執行者たるマーフォークだ。他の二人が頼っている哲学や信念などに比べて、彼の拠たる規則は非常に明確である上に、組織的プレイのためにも不可欠であり強い拘束力を持つ。次は哲学の探求者たるエルフ。彼はポリシー文書に記しきれなかった公式側の理想を実践するという大義名分を掲げている。
最も扱いが面倒臭いのは信念の解放者たるゴブリンだ。彼の意見が他の二人と食い違うのであれば、それは彼の意見は世間一般の常識に反しているということだ。僕自身の信念などと言えば聞こえはいいが、実際それはただの身勝手な我儘に他ならない。しかし彼の困ったところは、そういう時にこそ、ここぞとばかりに声を張り上げるところだろう。
しかし、それでよいのだ。もしジャッジ脳の中に、誰か一人しか存在しなければどうなるだろうか。規則の執行者たるマーフォークが一人では、ポリシー文書に従うだけの人形になる。哲学の探求者たるエルフが一人では、哲学の迷路に迷って行き詰まる。信念の解放者たるゴブリンが一人では、組織化プレイに悪影響を与える。彼らは、一人ひとりが特化した考え方を持つが故に、一人ひとりでは破綻してしまう。互いの足りない部分を補い合う必要があるのだ。
三人のうちで誰が一番重要かではない、誰もが重要な彼ら三人が議論し状況に合わせて結論を出すことが、一人ひとりでは成しえないよりよい大会運営に繋がると、他ならぬ僕自身が信じている。
ともあれ、彼ら三人が僕のジャッジ脳に住んでいると自覚してから、僕の脳内会議は非常に楽に進むようになった。なんたって、僕は何も考えずとも、彼らの議論に耳を傾けていれば勝手に結論を出してくれるんだからね。(ありがとう、かわいい小人たち。愛しているよ。)
おっと、最後になってしまったが、僕のジャッジ脳に住んでいる彼ら三人が、僕の瞼の裏にはどう映っているのかを紹介しておこう。
規則の執行者たるマーフォーク
http://diarynote.jp/data/blogs/l/20121203/91636_201212030037469341_1.jpg
哲学の探求者たるエルフ
http://diarynote.jp/data/blogs/l/20121203/91636_201212030037469341_2.jpg
信念の解放者たるゴブリン
http://diarynote.jp/data/blogs/l/20121203/91636_201212030037469341_3.jpg
僕のジャッジ脳には三人の小人が住み着くようになった。
今日はその小人たちを紹介したいと思う。
個人の大会を主催し、競技イベントに参加し、グランプリも経験した。そんなジャッジとしての活動を続けるうちに、少しずつジャッジ脳が形成されてきた。ジャッジ脳とは僕が勝手に呼んでいるだけのものだが、それは脳の奥深くに形成され、よりよい大会運営とは何かを解釈し調整し明確化している。このジャッジ脳が形成されていくにつれ、その中には三人の小人が住み着くようになった。
今日はその小人たちを紹介したいと思う。
一人目は規則の執行者たるマーフォークだ。彼は公式の規則をよりよく把握し順守するために僕のジャッジ脳に留置している。
ここでMTGにおけるポリシーという言葉について補足し誤解を解いておこう。MTGの公式側が特に裁定に関連して使うポリシーという言葉は、僕ら日本人がイメージするそれとは少し違う意味を持つ。僕らは普段ポリシーという言葉を「方針」という意味で使うから、日本人がポリシーと聞くとマジックのイベントにおける方針くらいに感じてしまうが、これは違う。公式側の言うポリシーとはもっと具体的なもの、イベント規定と違反処置指針のポリシー文書のことだ。それに対してマジックの方針は「哲学/philosophy」という言葉で表わされる。
規則の執行者たるマーフォークは、公式側によって定められたポリシー文書を唯一絶対のものだと考えている。そのため彼は、ポリシー文書を厳密に厳格に順守することがよりよい大会運営に繋がると確信し、ポリシー文書の内容を全て正しく把握することに没頭している。
二人目は哲学の探求者たるエルフだ。彼はMTGの哲学をよりよく理解し実践するために僕のジャッジ脳に居住している。
ここでもうひとつ誤解を解いておこう。ポリシー文書にはマジックの哲学が最大限反映され、大会運営や問題解決の最善の手段が示されている、と考えているかもしれないが、それは誤りである。ポリシー文書には哲学が最大限反映されているわけではない。仮にそんなものがあったとして、世界中で一体何人のジャッジがそれを正しく運用できるだろうか。先日失効された失効能力の一番の問題点もそこにあった。失効能力の着想自体はかなり理想に近い形ではあったものの、それを扱うのが人間である以上、理想を現実に反映することが叶わなかった。ポリシー文書は世界中のジャッジが等しく運用できなければならなず、そこで制約がかかってしまっている。
哲学の探求者たるエルフは、ポリシー文書を唯一絶対のルールなどとは考えていない。それは観賞物として展示された案山子に過ぎず、真に重要なのはその土台である哲学だと考えている。そのため彼は、ポリシー文書に記しきれなかった哲学を実践することこそがよりよい大会運営に繋がると忠信し、ポリシー文書を読み砕きその土台である哲学を理解することに煩悩している。
三人目は信念の解放者たるゴブリンだ。彼は僕自身の信念をよりよく確立し貫徹するために僕のジャッジ脳で喊声を挙げている。
ヘッドジャッジには、ある程度の範囲でポリシー文書から逸脱した裁定を出すことが認められている。ただしそのある程度というのは、非常に稀な特定の例外事象の存在下か、適用すべき理念が定められていない場合のみであり、つまり裁定においてその機会は滅多に訪れない。各々のジャッジが自身の信念を持つことは良いが、だからといって、組織化プレイとしてはジャッジによってそれぞれ異なる裁定を出されては困る。そのためのポリシー文書である。
しかし信念の解放者たるゴブリンは、ポリシー文書はジャッジが従うものではなく、あくまでもジャッジが扱うツールのひとつであると考えている。そのため彼は、ポリシー文書を逸脱することを厭わず自分の信念を貫徹することがよりよい大会運営に繋がると妄信し、ポリシー文書を通して自分の信念を確立することに執心している。
僕のジャッジ脳の中では、この三人が各々の観点からよりよい大会運営を目指して議論している。もっとも、この三人の意見は多くの場合において合致している。ポリシー文書には公式側の哲学が実現可能な範囲で反映されているし、僕自身の信念も公式側の哲学やポリシー文書をそれほど逸脱していない。しかし時には意見が食い違い議論が白熱することもある。
最も大きな発言力を持つのは規則の執行者たるマーフォークだ。他の二人が頼っている哲学や信念などに比べて、彼の拠たる規則は非常に明確である上に、組織的プレイのためにも不可欠であり強い拘束力を持つ。次は哲学の探求者たるエルフ。彼はポリシー文書に記しきれなかった公式側の理想を実践するという大義名分を掲げている。
最も扱いが面倒臭いのは信念の解放者たるゴブリンだ。彼の意見が他の二人と食い違うのであれば、それは彼の意見は世間一般の常識に反しているということだ。僕自身の信念などと言えば聞こえはいいが、実際それはただの身勝手な我儘に他ならない。しかし彼の困ったところは、そういう時にこそ、ここぞとばかりに声を張り上げるところだろう。
しかし、それでよいのだ。もしジャッジ脳の中に、誰か一人しか存在しなければどうなるだろうか。規則の執行者たるマーフォークが一人では、ポリシー文書に従うだけの人形になる。哲学の探求者たるエルフが一人では、哲学の迷路に迷って行き詰まる。信念の解放者たるゴブリンが一人では、組織化プレイに悪影響を与える。彼らは、一人ひとりが特化した考え方を持つが故に、一人ひとりでは破綻してしまう。互いの足りない部分を補い合う必要があるのだ。
三人のうちで誰が一番重要かではない、誰もが重要な彼ら三人が議論し状況に合わせて結論を出すことが、一人ひとりでは成しえないよりよい大会運営に繋がると、他ならぬ僕自身が信じている。
ともあれ、彼ら三人が僕のジャッジ脳に住んでいると自覚してから、僕の脳内会議は非常に楽に進むようになった。なんたって、僕は何も考えずとも、彼らの議論に耳を傾けていれば勝手に結論を出してくれるんだからね。(ありがとう、かわいい小人たち。愛しているよ。)
おっと、最後になってしまったが、僕のジャッジ脳に住んでいる彼ら三人が、僕の瞼の裏にはどう映っているのかを紹介しておこう。
規則の執行者たるマーフォーク
http://diarynote.jp/data/blogs/l/20121203/91636_201212030037469341_1.jpg
哲学の探求者たるエルフ
http://diarynote.jp/data/blogs/l/20121203/91636_201212030037469341_2.jpg
信念の解放者たるゴブリン
http://diarynote.jp/data/blogs/l/20121203/91636_201212030037469341_3.jpg
僕のジャッジ脳には三人の小人が住み着くようになった。
今日はその小人たちを紹介したいと思う。
コメント
脳にいる小人はすべてミニドラ